けんぼうは留年生

ノンジャンルで何か書きたくなった時に書く感じ

「やる」が出来ない自分と向き合っている話

 昨日書いたこの記事に対して「ハードルを下げる」という話が出てきたので、その返答を書いているうちに段々違う話になりました。
kembo.hatenablog.com

やらない理由は「ハードル」だけじゃない

 一般的に物事が始められない対策として「ハードルを下げる」というものがあります。物事を進めるのをできるだけ楽にする仕組みを用意するとか、それこそ上の記事で書いた短い時間だけ取り掛かるとか。これ自体に効果が無いとは思いません。私もこれによって上手くいったものもあるような気がします。現にこうやって雑にブログ記事を書くと決めて書いてるのは「ハードルを下げる」です。


 でも、それだけで物事をやれるわけじゃない。例えば、「毎朝5秒間右手を上に挙げる」という習慣をちょっとやってみてください。1週間で良いです。意味はありません。やれますか? 少なくとも私はやれません。明日はぎりぎり覚えてるかもしれないけど明後日は例え覚えててもやらないでしょうね。右手を挙げるのにハードルを感じますか? 私は全く感じません。この記事を書きながら3回くらい手を挙げてみました。普通にやれます。でも習慣にすることは出来そうにありません。

 この例に「それは無意味な行いだから」と返すのはもっともなんですが、「無意味」は「困難さ」ではないですね。それでもやらない理由の全てを「困難さ」以外のものも全て含めて「ハードル」という言葉に集約することで「ハードルを下げる」という言葉で取り組むための工夫を説明することは可能だと思います。ただ、その考え方ではちょっと狭いと感じているんです。

「ハードル」は解釈であって事実ではない

 「ハードル」は人がタスクを片付けられたり片付けられなかったりという現象の原因を、「自分の心」と「タスク」という概念を「ランナー」と「ハードル」に喩えているわけですよね。
f:id:kemboorg:20210401142439p:plain
 これをもうちょっと掘り下げると、「心理状態」のポテンシャルを「タスクをやる前」と「タスクをやる時」に分けてその差を「ハードル」と呼んでいる事になりますね。でも、これは本当に実態に沿った解釈なんでしょうか? 「やる要因」「やらない要因」は数値化出来るものでしょうか? 比較可能なものでしょうか? そうでないなら本当にこの解釈は正しいんでしょうか?

「モデル化」の有用性と限界

 現実に起こっていることを単純な形に落とし込んでその現象の解釈や未来の予測に役立てることを「モデル化」と言います。「ハードル」も一種のモデル化だと私は思います。そして、モデルは事実とは限らないし、モデルは事実でなくても役に立ちます。

 例えばここにりんごが1個あって、もう1個りんごを持ってきたらこれは2個になります。これを 1+1=2 という数式で表現できますね。でもこれは事実でしょうか? 2つのりんごは微妙に形や色が異なるでしょうし、決して同じものではあり得ません。でも、それが無視できる状態であるならば、別にこの数式で何ら困らないでしょう。スーパーに置いてあるりんごでは多少の個体差は無視して1個いくらで売られています。これはりんごを「数」というモデルで考えている例です。

 「モデル化」は個数だけじゃなくてもっと複雑な事象についても不正確ながら分かりやすい切り口を与えてくれます。私たちが科学や学問と呼んでいるものも全て「モデル」ですし、普段の生活でも考えたり議論したりする上で言語化することは「モデル化」と言えます。そして、どのようなモデルが適切かというのはケース・バイ・ケースであって、普遍的な正解というのはありません。同じ世界のことを考えているはずなのに学問が色んな種類に分かれるのは「切り口」が異なり「モデル」が異なるからです。どのモデルもある程度正しいし、ある程度不完全です。私たちはその時その時で都合の良いものを採択すればいいんです。

モデルは手段

 つまるところ、ハードルもモデルであって真実ではありませんし、その解釈が有効な範囲には限界があります。でも、それがあなたの人生に役に立っているならばそれを変える必要性はありません。ハードルで問題を捉えること自体が問題を解決するための手段の1つであって、役に立つなら使えばいいし、役に立たないなら捨てればいい。

より根本的な問題との向き合い方

 自身の不満や不安こそが問題の本質です。そしてそれを解決するために、現実で起こっていることを観察します。自分を観察します。何があなたを不満にさせ、何があなたを不安にさせるかを考えます。どうしてそのような事象が起こるのか法則性を探します。ただ、人間は頭が悪いので単なる事実や結果の羅列から何某かを見出すことは困難です。そこで「モデル」が出て来ます。自分にしっくりくる「モデル」*1を選びましょう。それで上手くいかないなら捨てて新しいものを探しましょう。一人で考えるだけでなく身近な人の意見を参考にしたり、本を読んで他人の知恵過去の知恵を参照するのも良いでしょう。正しいモデルはありません。都合の良いモデルだけがあります。好きに取捨選択していきましょう。言葉や解釈は真実ではありません。起こったこととあなたの感情だけが真実です。それを優先しましょう。

私のモデル

f:id:kemboorg:20210401160547j:plain
 私は今自分を重たい岩の玉になぞらえて捉えてます。これを転がそうとするのが理性です。岩は自分のいる場所に不満を言うんですが自らは動けません。理性は岩の言うことを聞いたり無視したりしながら岩を転がそうとするんですが、何分重いので中々動きません。一度転がり出すと今度は中々止められません。私の理性は非力なので頑張り過ぎると疲れて岩に潰されます。やりたくないタスクは上り坂です。長い上り坂は辛いので、タスクを切り分けて上り坂に休憩地点を設けます。ただ、この岩無意味に賢いので上り坂が長いのを見るとそれだけでげんなりしてしまうようです。岩に考えさせないために勢いをつけて転がしてしまえると楽なんですが、勢いをつけるのも難しくて今色々工夫を考えています。

 昨日は家を出た際たまたま百均で整理用の箱を買ったら勢いがついて机の上を片付けることが出来ました。でも、リングフィットをやることは出来ませんでした。今はブログを書く方向に勢いがついて転がっていてこの記事を書ききることが出来ました。今後も結果がちゃんと積み重ねられる方向に転がせていけたらと思ってます。

*1:ここで言う「モデル」とは見方・捉え方・解釈・考え方・言葉・世界観などと言い換え可能なものです。