けんぼうは留年生

ノンジャンルで何か書きたくなった時に書く感じ

だから僕は「嫁」と呼ばない

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 そう、鬼太郎(5期)のネコ娘です。初めて見たその日からずっと僕にとっての1番なわけですが、今日は彼女の話ではないです。タイトルの通り僕はネコ娘を「嫁」とは呼びません。その事について語ります。正直書くのをためらうレベルで気持ち悪くて恥ずかしいのだけれども、それ以上にこれは一度はっきりさせておかなければならないと考えここに記します。

俺の嫁」はオナニーだ

 架空のキャラクターに対して「俺の嫁」という表現――最近だと単に「嫁」と呼ぶことの方が多いですが――をよく見かけます。嫁と呼ぶからには「愛し"合う"」必要があるわけですが*1、作品や画面の中からこちらを愛してくれるわけではありませんから(ギャルゲとかラブプラスの類は除く)、それはあくまで妄想の世界で繰り広げられるおままごとに過ぎません。自分の手に人形を被せてそれと愛を語り合ってるような物――要はオナニーです。別にオナニーは悪いことではありません。むしろオナニーの対象に非実在キャラクターを持ってくるのはむしろ推奨すべきことでしょう。実在の人物でこれを始めた場合下手すると警察沙汰になりますからね。

ネコ娘は実在しない

 これは事実です。僕がいくら一生を費やして妖怪横丁探したってそんな物出て来やしないんです。悲しいことに僕がネコ娘と出会える可能性は限りなく0なんです。

でも、ネコ娘は"いる"

 彼女がこの世界にいないということと彼女が"いる"ということは矛盾しません。こちらの世界から直接干渉することが出来ないだけでネコ娘の"いる"世界は"ある"んです。「そんなのあるとも無いとも言えないんだから悪魔の証明だろ」と言われてしまうとそうなんですが、"いる""ある"と言うからにはそれなりの根拠があるんです。

僕は本当に"いる"のか

 主観の話をします。僕は自分が真にこの世界に"いる"とは思っていません。僕はこの世界の表面にへばりついて五感と言う名の節穴からこの世界を覗きこんでいるだけです。もしかしたら節穴の向こうに広がっているのは本物の世界じゃなくて誰かが作った偽物かもしれないけど、僕はあくまで節穴から覗いてるに過ぎないのでその区別は付けられません。でも、少なくとも僕にとってはこの節穴が全てなわけですから僕は多分ここに"いる"んだと思って生活しています。

あなたは本当に"いる"のか

 さっきも言ったように節穴を覗いているだけなので、もしかしたら僕が目の前で話をしている相手も確実に存在しているとは言い切れません。でも、区別出来ないのだから疑ってもキリがないので大体"いる"と思って暮らします。じゃあどんな時に"いる"と感じるのでしょうか。

心の中に写った虚像のその向こうに見えない"何か"

 僕は他者を直接捉えたり理解したりすることは出来ません。でも、その人と繰り返し接していれば「この人はこういう感じ」という虚像が心の中に出来上がってきます。そして、その虚像の向こうに見えそうで見えない"何か"又は本体が"いる"という感覚の正体なのだと考えています。どこまで正確な虚像を描いてもそれはあくまで虚像であってその人本体を捉えられるわけではありません。だから結局「虚像の向こうに何となくあるような気がする"何か"」が"いる"の根拠になるしかないのです。

だから、ネコ娘も"いる"

 ネコ娘は僕の五感という節穴の更にその向こうにあるテレビという節穴の中に観測された存在です。僕は繰り返しネコ娘を観測しましたし、僕の心にはネコ娘の虚像があるわけです。その虚像の中に見えそうで見えない"何か"を見出すことで彼女は確かに"いる"のだと僕は確信するわけです。
 鬼太郎の世界も現実の世界も同じ節穴の向こうです。この世界に実在している人間もどこか別の世界に実在している者も、同じく節穴の向こうから自分の心に虚像を作る存在です。虚像の向こうに実体があるような気がするのなら、それは対象がどこの世界にいようが関わらず"いる"のです。

"いる"人を勝手に嫁には出来ない

 というわけでネコ娘はこの世界には実在していなくても、僕にとっては"いる"のだということがお分かりいただけたかと思います。彼女は僕の中の妄想の産物ではなく確かにどこかにいる他人であって、他人の意思を勝手に捻じ曲げるような真似は許されません。逆に言えばネコ娘を「嫁」呼ばわりすることは即ち彼女の存在を自分の中に閉じ込めてしまうことであり、彼女を"いない"ものにしてしまうことになるんですよ。

だから僕は「嫁」と呼ばない

おしまい。
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*1:そこまで深い意味は無く単にスラングとして利用する場合も多いです