けんぼうは留年生

ノンジャンルで何か書きたくなった時に書く感じ

"愛"と"金"の話

お金は好きですか?私は好きです。

 好きな人も嫌いな人も色々信念なり哲学なりがあるんでしょうが、まぁお金無いと生きるのに困るという点では大体一致すると思います。それはそうと世の中にはお金を嫌う価値観が確かに存在します。例えばお金を沢山稼いで上流階級と肩を並べるようになった人を「成金」と呼びます。大抵は悪いニュアンスです。それに金貸しは歴史上最も嫌われている職業の1つと言えるでしょう。プレゼントに現金を渡す人ってのもあまり無い。

 じゃあどうしてそんなにお金が嫌われるんでしょうね?という話を今日はしたいと思います。

 さて原始時代にタイムスリップしてみましょう。そうです腰に布巻いて槍持ってマンモスを捕まえていた……かどうかは分かりませんが、とりあえず最初は狩猟からですね。その辺の動物を殺し木の実や草を取ってきて適当に食べる。そんな生活です。一人で生活するのは難しいので当然集団生活になります。少人数の村です。村の中には年寄りや子供やけが人と言った「何も出来ない奴」というのもいたはずです。でも、彼らは分けあって生活していました。肉を一人で取ってきても、取り分は皆に平等に分けます。美味いキノコが生えてる場所を見つけても、独り占めせず皆で食べます。どうしてそんなことをするかと言うとそれはです。現代で言うなら家族愛が一番近いでしょうか。村のメンバーは皆仲間であり1つの家族のようなものなのです。愛する村の人々を裏切って身勝手な行動を取ることは良心が咎めるのです。

 この愛という感情にもそれなりの理由があります。集団生活をする動物は人間にかぎらず「集団の利益を害して自分の利益を優先する」という行動に不快感を持つようプログラミングされています。理由は勿論それが生き残る上で有利だったからです。つまりは人間が生き残るのに必要な本能だったわけです。

 さて、そんな小さな村を1つの愛で回していたわけですが、そんな時代が終わりを告げるのが農耕の時代の到来です。農耕は人数を必要としますから、小さい村から大きな町へと発展していきます。そうすると段々先述の愛が成り立たなくなって来るんですね。村が小さい時は毎日のように顔を合わせるわけですからそりゃもう愛し合ってるわけですが、例えば千人二千人程の規模ともなれば顔を覚えるのがやっとでしょう。まして隣町とも付き合っていこうということになれば愛はおろかそもそも信頼できる相手なのか話の通じる相手なのかすら怪しくなってきます。

 そこでお金が出て来るわけです。(本当はその前に物々交換の段階があるけど面倒だからすっ飛ばすぞ)が無くとも安心して物をやり取り出来る媒体。それがなんです。つまり金は愛の代替品だと言えるわけです。

 さっきも書いたように愛は進化の過程で必然があって生まれた感情ですが、金は社会が発達する過程で後から人工的に付け加えたシステムです。さすれば人の感情がどちらを優先するかは言わずもがなでしょう。

ざっくりまとめるとこうです。

  • 社会を回すために本能的に愛があった
  • 社会の発達に伴い元々ある愛では性能不足だった
  • そこで金を使って社会を回していくことにした
  • 故に我々の愛という感情は不自然な金という存在を受け入れられない

 だから金は汚い物扱いされたりするわけです。

 最近「例え友人・親族の類であっても相手がプロならば料金を支払うべき」という論が人気を集めているようですが、そもそもどうして「親しい相手だからお金を払わない」という発想になるのかと言うと今述べた様に「愛する相手だからこそ金を挟みたくない」という感情が少なからずあると思うんですよね。

結論:誰か金くれ

※大体が僕の曖昧な記憶に基づいた妄想です。しっかりとした根拠があるわけではないので悪しからず。